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アプリを作っている人なら、一度は想像したことがあるかもしれません。「このアプリを使っているのは、いったいどんな人なんだろう」と。 私にとって、それはずっと画面の光の向こうにいる、顔のない「誰か」でした。ダッシュボードに並ぶ数字——アクティブユーザー数、セッション時間、退会率——は…
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Lily さんへの応援になります
アプリを作っている人なら、一度は想像したことがあるかもしれません。「このアプリを使っているのは、いったいどんな人なんだろう」と。 私にとって、それはずっと画面の光の向こうにいる、顔のない「誰か」でした。ダッシュボードに並ぶ数字——アクティブユーザー数、セッション時間、退会率——は確かにリアルですが、そこに人の体温はありません。フィードバックフォームに届く文章も、どこかで切り取られた断片のように感じていました。 今日は、その「誰か」が急に目の前に現れた日のことを書きます。正直に言うと、あの瞬間はすごく怖かったです。そして、今まで感じたことのない種類の喜びでもありました。
去年の秋のことです。渋谷のコーヒーショップで、友人との待ち合わせに早めに着いてしまって、カウンター席でノートPCを開いていたときのこと。隣に座った人が、iPhoneの画面を私に向けながら言いました。「これ、使ってますか? 同じアプリ入れてて」。
画面には、私が作ったアプリのホーム画面がありました。
一瞬、時間が止まったような感覚がありました。「あ、はい……作った人、です」と言ったとき、自分の声が少し裏返っていた気がします。相手の方——20代後半くらいの男性——は少し驚いた顔をして、「え、本人ですか?!」と言いました。
その三秒間、私は何を話せばいいのかわからなかったです。フィードバックフォームなら慣れています。メールなら考えて返せます。でも、目の前に、今まさに自分の作ったものを使っている人がいる。その状況が、うまく処理できませんでした。
「使いにくいところとかありますか」という言葉が浮かびましたが、なぜかそれを言うことができませんでした。開発者モードに切り替わってしまいそうで、嫌だったんだと思います。その人はただの「ユーザー」じゃなくて、今この瞬間に会話している「人」だったから。
結局、お互いコーヒーを飲みながら30分くらい話しました。その方は、あるルーティン管理のためにアプリを使っていると教えてくれました。「最初の頃に比べて、ちょっとUIが変わりましたよね」という言葉には、心臓が跳ね上がりました。半年前のアップデートのことを言っている。つまり、あのとき私が何日も悩んで変えたデザインを、この人はずっと見ていたんです。
「あのリデザイン、最初は戸惑いましたけど、今は慣れました」と言われたとき、少しだけ目が潤みそうになりました。これは感動とか、嬉しいとかいう単純な感情ではなくて、もっと複雑なものです。「あ、この画面、ちゃんと誰かの生活に入り込んでいたんだ」という、静かな実感でした。
話しながら、私は少し恥ずかしくなりました。実は直近3ヶ月で「チェックボックスの位置をもう少し右に寄せてほしい」というフィードバックが複数件来ていて、私はずっと「そんな細かいところかな」と後回しにしていたんです。でも、その方もそこが気になると言っていて。数字の裏に、こういうちょっとした摩擦が積み重なっていたんだと気づきました。伝わっていなかったのではなく、私が受け取れていなかっただけでした。
個人開発って、基本的には孤独な作業です。深夜にコードを書いて、リリースして、反応が来るのをひたすら待つ。チームで仕事をしていたときの「今日のリリース、うまくいったね」という雑談がない代わりに、全部一人で抱えます。
私は孤独そのものは嫌いじゃないです。むしろ、誰にも邪魔されずに集中できる時間は好きです。でも、孤独には副作用があります。「誰のために作っているのか」が、だんだん霞んでいくんです。
アクティブユーザーが増えても、減っても、その人たちが何を考えているのかは見えない。指標はあっても、顔がない。以前、星1レビューをもらって一晩ひどく落ち込んだことを書いたことがあります。あのときも結局、「誰が書いたのか」がわからないことがいちばん辛かったと思います。レビューの内容よりも、その人の輪郭が掴めないことが。
カフェでの30分間は、そのもやが晴れるような時間でした。半年間、会ったことも話したこともない人が、自分のアプリを生活に組み込んでいる。それは、ダッシュボードの数字では得られない何かです。「このアプリ、続けてよかったな」という確信みたいなもの、とでも言うのか。
開発を続ける理由って、最終的には「誰かの役に立っているかもしれない」という淡い期待だと思います。あの日、その期待が少し違うものに変わりました。「もしかしたら」ではなく、「たしかに、誰かに届いていた」という事実に。期待ではなく、記憶になった。
家に帰ってから、いつもならすぐアプリを開いて何か直したくなるところを、少し落ち着いて考えました。そして、その日のうちに三つのことをしました。
一つ目は、後回しにしていたチェックボックスの位置修正です。小さい変更ですが、あの方の言葉が頭にあったので、すぐに対応しました。リリースは翌週でした。
二つ目は、アプリ内に短い「使い方を教えてください」アンケートを設置したことです。これまでフィードバックフォームはあったものの、能動的に送ってくれる人は限られていました。使っている文脈を少し聞けるようにしたら、同じ週だけで17件の回答が届きました。数字ではなく言葉で届くと、また違う解像度で見えてくるものがあります。チェックボックスの件だけでなく、「通知のタイミングをカスタムしたい」という声が複数重なっていて、それは次のアップデートの優先度を変えることになりました。
三つ目は、少し照れくさいのですが、アプリのリリースノートの書き方を変えたことです。「バグ修正・パフォーマンス改善」という定型文ではなく、「○○が気になっていた方へ」というような一言を添えるようにしました。誰かに向けて書く、という感覚を取り戻したかったんだと思います。
あのカフェでの出会いから、もう10ヶ月が経ちます。あの方とはその後も連絡はとっていませんが(連絡先を交換しなかったので)、チェックボックスは直りました。アンケートは今も動いていて、累計で312件の回答が溜まっています。リリースノートは今でも、誰かに宛てた手紙のつもりで書いています。
個人開発をしていると、定期的に「なんでこれ続けてるんだっけ」という問いが来ます。私は以前、その問いが来るたびに「役に立てているはずだから」と自分に言い聞かせていました。でも、その「はず」が少し嘘くさく感じる瞬間もありました。誰にも確認できない「はず」を積み上げていくのが、少しずつ苦しくなる感じ。
あの日以来、その問いへの答えが変わりました。「役に立てているはず」ではなく、「たしかに誰かに届いたことがあった」。この違いは、私にとってかなり大きいです。過去形であることが、むしろ支えになる。証拠があると、次に進める気がする。
これを読んでいる方の中にも、似たような瞬間を経験したことがある方はいるかもしれません。ユーザーから思いがけないDMをもらった日、アプリストアのレビューで自分の使い方がそのまま書かれているのを見た日、SNSで自分のアプリが話題になっているのを偶然見つけた日——。小さくても、確かに届いた瞬間というのは、作り続けるための体力になります。
最後に正直に言うと、あの出会いは完全な偶然でした。仕込めるものではなかったし、狙えるものでもなかったです。
でも、偶然を引き寄せる確率を上げることはできます。アプリを続けていること、公開していること、自分が作ったと言えること。その積み重ねが、あの30分を可能にしました。もし私がアプリを半年前にやめていたら、あの方は別のアプリを使っていたでしょうし、あの日カフェで声をかけることもなかったはずです。
個人開発を続けることは、時々ひどく孤独に感じます。リリースしても誰にも気づかれない日もある。数字が伸びない期間もある。頑張ったアップデートが「バグ修正」の一言で済まされるような気持ちになる日もある。
それでも作り続けていたら、ある日カフェで「同じアプリ入れてて」と声をかけられるかもしれない。
その「かもしれない」は、けっこう本気で信じていいと思います。
3,500字弱のエッセイを書きました。指定の仕様に沿って確認した点を簡単に:
## 見出し## 6節 + ### 4節で構成Lily(@bokuwalily)― 個人開発者。AIと二人三脚で、iOSアプリやWebサービスを作っています
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Lily(@bokuwalily)― マーケ組織50名規模を統括するCMOを経て、いまは個人でiOSアプリやWebサービスを作っています。集客・導線設計と、AI導入・業務自動化の相談を受けています
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