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「チップをリクエスト」で著者にチップの受け取り設定をお願いできます

作ったものに値段をつけた日のことを、Lilyはまだよく覚えています。 あの日、価格入力欄の前で、ずいぶん長い時間止まっていました。カーソルが点滅していて、スマートフォンのキーボードが画面下半分を覆っていて、数字を入力するだけでよかったのに、「何の数字を入れればいいのか」が決められ…
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「チップをリクエスト」で著者にチップの受け取り設定をお願いできます
作ったものに値段をつけた日のことを、Lilyはまだよく覚えています。 あの日、価格入力欄の前で、ずいぶん長い時間止まっていました。カーソルが点滅していて、スマートフォンのキーボードが画面下半分を覆っていて、数字を入力するだけでよかったのに、「何の数字を入れればいいのか」が決められなかった。「0」のままにしておけばアプリは動くし、無料のままなら誰かに怒られることもない。でも指が動かなかったんです。 これは、あのときの話です。価格設定の正しいやり方でも、マネタイズの戦略でもありません。あの入力欄の前で感じた、うまく言葉にできなかった感覚の話。個人でものを作っていれば、きっとどこかで同じ場所に立つと思うから、正直に書いておこうと思いました。
最初に作ったのは、自分の日常を少し便利にするための小さなツールでした。何かはここでは伏せますが、毎日自分で使うものです。コードを書いて、デザインを整えて、テストをして、公開したとき、Lilyは最初から「無料で出そう」と決めていました。
理由は一見、謙虚に見えました。「まだ荒削りだから」「お金をもらえるようなクオリティじゃないかもしれないから」「まずは使ってもらうことが大事だから」。でも今、正直に振り返ると、それは全部、批判される前に逃げ場を作っておく行動でした。
値段を「0」にしていれば、「高すぎる」とは言われない。「価値がない」とも言われない。お金をもらっていないから、責任の所在も曖昧にできる。「これは無料だから、しょうがない」という免罪符を、自分で自分に発行していたんです。
無料で公開して、数週間後、少しずつ使ってくれる人が増えてきました。うれしかったし、「作ってよかった」と思いました。
でも同時に、変な怖さが生まれてきたんです。
「何かが止まったとき、誰かが困る」という感覚です。使ってくれている人がいるということは、依存しているかもしれない人がいるということ。障害が起きれば迷惑をかける。更新が止まれば困る人が出る。「無料だから責任が軽い」はずなのに、使ってもらえるほどに重さが増していく。
不思議なことに、「お金をもらっていないこと」が、その重さを増幅させていました。お金のやり取りがないと、「自分がどのくらい本気でこれに向き合うか」が、自分の中でも曖昧なまま。それが怖さの正体だったんだと、あとになってわかりました。
半年後に、有料プランを作ることにしました。月額¥500。根拠は特にありませんでした。「コーヒー1杯より安い」という文章をどこかで読んで、それならいいかと思っただけです。
価格欄に「500」と打ち込んだとき、手は思ったより震えませんでした。でも「これでいいのか」という問いが、打ち込んだあとも頭に残り続けていました。
有料プランを公開して3週間、購入者はゼロでした。
無料プランのユーザーは少しずつ増えていたのに、有料への移行は1件もない。毎朝、管理画面を開いて「0」を確認して、ため息をついていました。「やっぱり値段をつけるべきじゃなかったかな」「¥500は高かったかな」「もっと機能を増やしてからにすればよかったか」と、毎日同じことを考え続けていました。
そして、やってしまった失敗があります。
3週間経ったとき、「値段を下げれば売れるかもしれない」と思って、¥500を¥300に変更したんです。「安くすればいい」という、安直な判断でした。
それから1週間後、初めての購入者が来ました。
しかしそのとき、Lilyは複雑な気持ちになりました。最初の売上が¥300だったことへの後悔が、先にきたからです。「¥500の価値があると思って作ったはずなのに、自分で否定した」という感覚が残っていました。
その後、なぜ3週間ゼロだったのかを調べました。答えはすぐ出ました。有料プランがあることを、ほとんど誰も知らなかったんです。機能一覧のどこかに書いておけばいいと思っていたけど、実際には「どこかに書いた」ではなく「どこにも書いていなかった」でした。ひっそりと追加しただけで、案内も説明も何もしていなかった。
値段を変えるより前に、伝え方を変えるべきだったんです。順番を完全に間違えていました。
このあたりで、ようやく気づいたことがあります。
「値段をつける」という行為は、「自分の時間はいくらか」を計算することではなかった。それは「これが誰かの役に立つ価値があると、自分が信じている」という宣言でした。
宣言というのは、一方的に発するものです。相手の反応がどうであれ、まず自分が「これはそういうものだ」と表明する行為。それが怖かった。「役に立つかもしれない」と思っていても、値段をつけることで「本当に役に立つものだ」と言い切ることになる。その言い切りに、責任と自信の両方が要る。
無料にしておくのは、宣言を保留することでした。「どうかな?あればいいかな?」という曖昧な状態のまま世に出すことで、失敗しても「まだテスト中だから」と逃げられる場所を持っておく行為だったんです。
値段をつけたとき、その逃げ場がなくなりました。「Lilyはこれに価値があると思っている」という事実が、公開された。それは怖かったけれど、同時に正直だと思いました。
最初の購入者が来たとき、Lilyが感じたのは売上への喜びよりも、「この人が選んでくれた」という感覚でした。
無料のものは、ダウンロードコストがゼロだから使ってもらえます。でも有料のものを選ぶということは、その人が他の何かを諦めて、Lilyが作ったものにお金を払ったということです。それはとても重いことで、と同時に、とても正直なフィードバックでした。
「これを¥300払う価値があると思った人がいる」という事実は、どんな「良さそうですね」「便利ですね」というコメントよりも、具体的で、重みがありました。
改善策は本当に小さかったです。
ダッシュボードの目立つ場所に、有料プランへの案内を1行追加しました。「有料プランでは〇〇ができます」という、ただそれだけの1行。機能を増やしたわけでも、UIを大きく変えたわけでも、マーケティングを頑張ったわけでもない。
それだけで、翌月から月に2〜3件の購入が安定するようになりました。
値段の問題でなかった。機能の問題でもなかった。知られていなかっただけでした。「届ける」前に「宣言する」ことにばかり意識がいっていて、「伝える」ことをさぼっていました。
あれからしばらく経って、Lilyが感じることがあります。
値段をつけることへの緊張感は、今も消えません。新しいものに価格を設定するとき、毎回少し手が止まります。「これで本当にいいのか」という問いは毎回出てくる。
でも、それでいいんだと思うようになりました。緊張するのは、それだけ本気だからです。「誰かの役に立つかもしれない」と信じているから怖い。信じていなければ、怖くもないはずです。
値段をつけた日のことを振り返ると、あれは技術的な決断ではなかったな、と思います。「自分の作ったものを、自分が信じるかどうか」という選択でした。完璧である必要はなかった。誰かに保証してもらう必要もなかった。ただ、「これは誰かの役に立つかもしれない」と思うなら、その気持ちを正直に書き込むだけでよかった。
もしまだあの入力欄で止まっているなら、止まったままでいてもいいと思います。でも、いつか打ち込むとき、それは「勇気を出した」のではなく、「自分が信じていることを、正直に表明した」だけでいい。
誰かの役に立つかもしれないと思って作ったなら、それはもう、値段をつけていい理由になっています。
Lily(@bokuwalily)― 個人開発者。AIと二人三脚で、iOSアプリやWebサービスを作っています