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「チップをリクエスト」で著者にチップの受け取り設定をお願いできます

ある朝、Discordの通知をなんとなく開いたら、自分が参加していないサーバーの名前が見えました。どこかで私のアプリが話題になっているらしいと、共通の友人から教えてもらったのです。 最初は何が起きているのか、よくわかりませんでした。そのリンクを踏んで、スレッドを上にスクロールして…
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「チップをリクエスト」で著者にチップの受け取り設定をお願いできます
ある朝、Discordの通知をなんとなく開いたら、自分が参加していないサーバーの名前が見えました。どこかで私のアプリが話題になっているらしいと、共通の友人から教えてもらったのです。 最初は何が起きているのか、よくわかりませんでした。そのリンクを踏んで、スレッドを上にスクロールして、ようやく状況が飲み込めてきた。見知らぬ誰かが「こういうのを探してたんだけど、これ使ったら解決した」と私のアプリを貼っていて、それを見た別の誰かが「どこで知ったの?」と聞いていた。告知はしていなかった。お願いもしていなかった。ただ、そこにあった。 その画面を、しばらくぼんやり見つめていました。
あの日のことをもう少し細かく話すと、私はそのDiscordサーバーの存在すら知りませんでした。個人開発者が集まっているコミュニティらしく、私が普段いる場所とは少し毛色が違う。なのに私のアプリの名前が出ていた。
紹介してくれていたのは、ユーザーでもなかったかもしれません。試してみて気に入った、くらいの関係かもしれない。でもその人はわざわざスレッドに「これがいい」と書いてリンクを貼っていた。返信が2、3件ついていて、「あ、知らなかった」とか「ちょっと試してみる」とか、そういう言葉が連なっていた。
私はそのやり取りに一切登場していません。名前が出てきたのはアプリの名前だけで、作った人間の存在は誰も気にしていなかった。それが、なぜかとても、じわっとした。
最初は「ありがとうございます」とそのスレッドに飛び込もうとしました。でも途中で手が止まった。なんか、違う気がして。
あの場所は私のいる場所じゃなかった。突然作者が現れて「見てましたよ」と言ったら、なんだか監視されてたみたいで気持ち悪いかもしれない。そもそも会話はもう終わっていて、流れていっていた。私が乗り込む必要は何もなかった。
だから結局、何もしませんでした。見ていたことも、知ったことも、誰にも言わずにそっとタブを閉じた。それだけです。
個人開発をはじめたばかりのころ、私は「作って届けるのが自分の仕事」だと本気で信じていました。作る。公開する。宣伝する。紹介する。ユーザーに届ける。そこまでが自分のやること。そこから先は、もうどうにもならない。
だからSNSで告知をするし、ハッシュタグをつけるし、なるべく多くの人に「あるよ」と伝えようとする。それでも届かなければ、それは自分の発信力の問題か、アプリの魅力が足りないかのどちらかだ、と思っていました。
リリースしたてのころは特にきつかったです。公開した翌日に反響がないと「失敗したのかな」と思う。フォロワーが少ないから届かないのか、文章が下手だから刺さらないのか、それとも需要がないのか。ぐるぐると考えて、また告知を工夫して、また数字を見て一喜一憂する。
そういう時期が半年くらい続いて、ある時点でやっと気づきました。自分が疲弊しているのは、「届けること」に全力をかけすぎているからだと。作ることの比率が下がって、伝えることのコストばかりが増えていた。
そこからは少しだけ方針を変えて、告知は最低限にして、あとは更新と改善に集中するようにした。誰かに届いているかどうかは、もうちょっと信じてみることにした。
「口コミ」という言葉は知っていました。でも正直、それが自分のアプリに起きるイメージが全然なかった。口コミって、もっと大きいものだと思っていた。レビューが並んで、評価が上がって、どこかのキュレーションに載って、みたいな。
でも実際に起きたことは、もっと地味でした。誰かが誰かに「これいいよ」と言う。それだけ。スクリーンショットも、丁寧なレビューも、まとめ記事も何もない。ただ一行、「使ったら解決した」と書いてリンクを貼った。それだけで、別の誰かが知った。
その小ささが、かえって本物みたいで怖かったです。広めようと演出されたものじゃなくて、純粋に「役に立ったから教えた」という動機だけで動いていた。私はその連鎖の外側にいて、何もしていなかった。
そういう瞬間に立ち会ったことが、それまでなかったんです。作って、届けようとして、結果を確認する、というサイクルの中には、こういうものが見えない。どこかで静かに動いていても、私には入ってこない。あの日は、たまたまその「外側」が見えた。
スレッドをもう一度思い出すと、紹介してくれた人はそんなに多くを語っていなかった。「これで解決した」「リンクはこれ」くらいの短い文章。でもその短さに、余計なものがない感じがした。
私が自分のアプリを紹介するとき、ついあれこれ書いてしまいます。背景を説明して、機能を説明して、こういう人に向いてますと書いて。なんか、信じてほしくて、つい多く言ってしまう。でもあの人の紹介には、そういう力みがなかった。ただ「よかった」ということだけが、そこにあった。
アプリって、リリースした瞬間から自分のものじゃなくなるんだな、というのは頭ではわかっていました。でも感情としてそれを実感したのは、あのスレッドを見た時が初めてでした。
自分が紹介したわけじゃない場所で、自分が知らない人に紹介されて、自分が参加していないやり取りの中で少し広がっていく。アプリはそこにあるけれど、私はいない。それが寂しいというより、なんというか、「ああ、ちゃんと外に出ていったんだな」という感じがした。
子どもを育てているとか、作品を発表するとか、そういうのに近いのかもしれません。手放したくないわけじゃない。でも、確かに離れていくのを感じる瞬間がある。
あの日以降、私の行動が大きく変わったわけではありません。劇的な気づきを経て方針を刷新した、みたいな話じゃない。ただ、小さいことがいくつか変わりました。
ひとつは、使われているかどうかを確認する時に、数字だけを見るのをやめました。インストール数やPV数じゃなくて、たまにSNSでアプリ名を検索してみるようにした。何も出てこない日がほとんどです。でも、たまに何か引っかかる。そのほうが、数字よりずっとリアルです。
もうひとつは、リリースした後の告知を、少し短くしました。以前は長々と書いていた説明文を、「こういう時に使えます、リンクはこれ」くらいに削った。誰かに伝えたい人が出てきた時に、コピーして使いやすい形にしておく、というイメージで。
うまく言語化できないんですが、あの体験から「届けることを頑張る」より「ちゃんとそこにある状態を保つ」ことのほうが大事かもしれない、という感覚が生まれました。
私が必死に届けようとしても届かない距離がある。でも、誰かが「これを教えたい」と思った時に、リンクがあって、使えて、動いていれば、その人が届けてくれる。私の仕事は、その時のためにアプリが動いていることかもしれない。
大袈裟に言えばそういうことになりますが、実際にやることは地味です。壊れてないか確認する。使いにくい部分を直す。更新する。それだけ。
結局、あの日の話はそれだけです。誰かが私のアプリを広めてくれていたと知った。何もしなかった。少しだけ考え方が変わった。
個人開発って、フィードバックが遅い。作ってリリースして、反応がなくて、また作って、を繰り返す。そのサイクルの中で、「本当に誰かの役に立っているのか」と不安になる時間がけっこう長い。あの瞬間に私が感じたのは、その不安への答えみたいなものでした。ちゃんと届いていた。私の知らないところで、ちゃんと使われていた。
もしかしたら、あなたのアプリも今ごろ、あなたの知らないどこかで話題になっているかもしれません。あなたが参加していないやり取りの中で、誰かが「これいいよ」と言っているかもしれない。
それを確かめる方法は、そんなにありません。たまたま気づく日があるかもしれないし、永遠に気づかないままかもしれない。でも、気づかないことと、起きていないことは違います。
アプリがちゃんと動いていて、使えて、誰かの役に立っているなら、それはもう外を歩いています。あとは、次を作ることだけを考えていればいい。
私はそう思って、また作りはじめることにしました。
Lily(@bokuwalily)― 個人開発者。AIと二人三脚で、iOSアプリやWebサービスを作っています