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「チップをリクエスト」で著者にチップの受け取り設定をお願いできます

三ヶ月ぶりにそのアプリのダッシュボードを開いたのは、なんとなく懐かしくなったからでした。ユーザーが増えているわけでも、バグ報告があったわけでもない。夜に少しだけ時間ができて、「そういえば、あのアプリどうなってるんだろう」とふと思っただけです。 ログインして画面を確認した瞬間、少し…
この記事が良かったら
「チップをリクエスト」で著者にチップの受け取り設定をお願いできます
三ヶ月ぶりにそのアプリのダッシュボードを開いたのは、なんとなく懐かしくなったからでした。ユーザーが増えているわけでも、バグ報告があったわけでもない。夜に少しだけ時間ができて、「そういえば、あのアプリどうなってるんだろう」とふと思っただけです。 ログインして画面を確認した瞬間、少し驚きました。今日だけで6件のアクティビティ。昨日も5件。先週も、その前の週も、誰かがちゃんと使い続けている形跡がありました。自分ではもう半年以上起動していなかったのに、今日もこのアプリを開いている人がいる。それを知ったとき、なんとも言えない気持ちになりました。 誇らしいとか、嬉しいとか、そういう単純な感情じゃないんです。もっとひっそりとした、「あ、このアプリは私の手を離れて、ちゃんと生きているんだ」という静かな驚き。「自分のために」作ったものが、いつの間にか「誰かのために」動いているという、その小さな変化の話を今日は書いてみたいと思います。
もともとは、自分の習慣を記録するためのアプリでした。といっても、既存のアプリで管理できなかったのは技術的な理由ではなくて、心理的な理由です。
当時の私は、少し疲れていました。仕事でも私生活でもうまくいかないことが重なって、「毎日続ける」ということへの苦手意識が強くなっていた時期です。習慣管理アプリを使っては途中でやめるを繰り返していました。連続記録が途切れると表示される「STREAK 0」の文字が、なんだか自分を責められているみたいで、だんだん開くのが怖くなって。
だから自分で作ったのは、失敗に優しいアプリでした。ストリークを表示しない。「さぼった日」という概念を持たない。ただ、記録した日を静かに並べてくれるだけの、とてもシンプルなもの。デザインも地味で、機能も少ない。でも当時の自分が本当にほしかったのは、そういうものでした。
コードを書いている間、ちょっとだけ気持ちが楽になりました。「自分にとって必要なものを、自分で作っている」という感覚が、当時の私には小さな拠り所になっていたんだと思います。うまくいかないことが多い時期に、「これは自分でコントロールできる」と感じられる何かが、ただそこにあることが心強かった。
リリースして最初の一週間は毎日使いました。記録するたびに「ちゃんとできた」という気持ちになれて、それが嬉しかった。自分で作ったものに、自分が救われている不思議な感覚がありました。
半年くらい経った頃でしょうか。ふと気づいたら、アプリを開くのをやめていました。悪い理由じゃないんです。生活が少し落ち着いてきて、「記録して自分を励ます」という行動自体が必要じゃなくなっていた。気がつけば、習慣が習慣じゃなくなっていた——つまり、アプリが必要なくなるくらいに、自分が変わっていたのです。
不思議なことに、こういう「卒業」は、した瞬間には気づきません。後から振り返って、「ああ、あの時期から使わなくなってたんだな」とわかる。お気に入りのカフェがいつのまにか足が遠のいているのと、少し似ています。
正直に言うと、自分のアプリを使わなくなったことに、最初は罪悪感がありました。「作りっぱなしにしている」みたいな感覚。サーバー代だけ払い続けて、自分も使っていないし更新もしていない。どこかで「もういいかな」と思いながら、でも消すには惜しくて、中途半端な状態がずっと続いていました。
個人開発をしている方なら、この感覚に覚えがある方もいるかもしれません。使われているかわからない、使っているのかわからない、でも消す勇気もない——そういうアプリが、ひとつやふたつあるのではないでしょうか。
ある日、久しぶりにアプリのフィードバック欄をちゃんと確認しました。そこに、こんなメッセージが届いていました。
「久しぶりに記録できました。このアプリ、責められないから続けられてる気がします」
送り主は知らない方です。短い一言でしたが、それを読んでしばらく動けなくなりました。
「責められないから続けられてる」——それは、まさに私がこのアプリを作った理由でした。当時の自分が一番ほしかったものを、見知らぬ誰かが今日受け取っていた。
その後、ログを少し丁寧に見るようにしました。深夜に記録している人がいる。同じ時間帯に毎日使っている人がいる。一週間ぶりに再開している人がいる。数字の並びだけでも、なんとなく生活の輪郭が見えてくるような気がして。
過去のフィードバックをまとめて読み返すと、「他のアプリが怖くなってきたのでこっちにしました」という方がいました。「何度も挫折してきたけど、これだと続けられそうです」という方もいました。どの言葉も、かつての自分と重なりました。
私が作ったのは自分のためのアプリだったのに、「あのころの自分」が世界のどこかにいて、今日もこのアプリを開いているのです。
あのフィードバックを読んだ日から、少しずつ気持ちが変わりました。
以前は「自分が使うから直す」というスタンスでした。自分が不満を感じたから改善する。自分がほしい機能だから追加する。でも今は違います。自分はもう使っていないけれど、誰かが使っている。その誰かのために、もう少しだけ丁寧にしたいという気持ちが出てきたのです。
劇的な変化ではありません。ある週末に、ずっと気になっていた画面の小さな表示ずれを直しました。それだけです。それだけでしたが、リリースしたときの感覚が最初とは少し違いました。「自分のために」ではなく「誰かのために」という気持ちで直した、初めての更新でした。そのときのほんの少しの緊張感と、リリース後の静けさが、今でも記憶に残っています。
このアプリは、大きなプロダクトではありません。毎月の利用者はそれほど多くないし、収益もほとんどない。機能も最初からほとんど変わっていない。それでも今日誰かが開いていて、明日も誰かが記録するかもしれない。
その事実がある以上、私にできることは「残し続けること」だと思っています。急いで機能を増やす必要はない。でも、動かなくなったら直す。表示がおかしくなったら直す。それくらいの小さな関わりを、細く続けていきたい。
個人開発を続けていると、「誰かに使われているのかな」という不安を感じる瞬間がたくさんあります。特に、自分がもう使わなくなったものに対しては。でも今回気づいたのは、「使われているかどうか」と「今の自分が使っているかどうか」は、まったく別の話だということです。
アプリは、作った人の手を離れて、使う人のものになる。そのことを、ダッシュボードのログをぼんやり眺めながら、ようやく腑に落ちた気がします。
最後に、少しだけ。
「自分の悩みを解決するために作った」という動機は、たぶん一番誠実な動機だと思います。誰かのためという建前ではなく、自分が困っているから作る。その切実さが、プロダクトにちゃんと宿るんじゃないかと感じています。
だから、その悩みが解決されたとき——自分が「卒業した」と気づいたとき——アプリを手放す必要はないかもしれない。あなたの昨日の悩みを、今日の誰かが持っているかもしれないから。あなたが静かに手放したアプリを、今この瞬間に誰かが開いているかもしれないから。
私は今日も、自分ではもう使っていないアプリのサーバー費用を払っています。少し前まではもどかしかったその行動が、今はほんの少し誇らしい。あのころの私に似た誰かが、今日もちゃんと記録できたとしたら——それで十分です。
Lily
Lily(@bokuwalily)― 個人開発者。AIと二人三脚で、iOSアプリやWebサービスを作っています
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Lily(@bokuwalily)― 個人開発者 / AI導入・業務自動化のコンサルタント。AIと二人三脚でiOSアプリやWebサービスを作りながら、企業のAI導入と自動化の相談を受けています
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