この記事が良かったら
「チップをリクエスト」で著者にチップの受け取り設定をお願いできます
「何か作ってるって言ってたけど、どんなものなの?」 お正月の帰省中、食卓でお母さんにそう聞かれたとき、Lilyはお箸を持ったまま固まってしまいました。別に隠しているわけじゃない。でも、なんて答えたらいいんだろう。「えっと……アプリを作ってて」「ふーん、ゲーム?」「違くて、もっとこ…
この記事が良かったら
「チップをリクエスト」で著者にチップの受け取り設定をお願いできます
「何か作ってるって言ってたけど、どんなものなの?」 お正月の帰省中、食卓でお母さんにそう聞かれたとき、Lilyはお箸を持ったまま固まってしまいました。別に隠しているわけじゃない。でも、なんて答えたらいいんだろう。「えっと……アプリを作ってて」「ふーん、ゲーム?」「違くて、もっとこう……」そこから先が出てこなくて、結局「まあなんか、便利なやつ」でお茶を濁してしまいました。 あの会話の後の居心地の悪さ、覚えていますか? 伝えられなかった自分への恥ずかしさと、説明しようとして言葉が蒸発していく感覚。個人開発をしている人なら、似たような場面が一度はあるんじゃないかと思っています。今日はそういう話をしたいです。うまく語れなかった日々のことと、それでも手を止めなかったこと、そしてある日ふと「自分の言葉」が生まれた瞬間のことを。
最初に詰まるのは、たいてい「目的」の質問です。「なんで作ってるの?」「それで稼げるの?」「それって仕事でやってるの?」
悪意はないとわかっています。むしろ興味を持ってくれているんだと思います。でも、個人開発の動機ってそんなにシンプルじゃないことが多くて。「作りたいから作ってる」という答えは、相手にとってはふわっとしすぎていて、かえって「え、じゃあ何のために?」という追加質問を生んでしまいます。
かといって「趣味です」と片付けてしまうと、なんか違うような気もするんですよね。趣味、という言葉のニュアンスが「将棋とか、読書とか、そういう感じ」を想起させてしまうのか、どこか軽く扱われている感じがしてしまいます。でも実際には、週末の何時間もをつぎ込んで、頭の中でずっと構造を考えていて、眠れない夜に設計を見直していたりする。それを「趣味です」の一言でまとめていいのか。
かといって「副業みたいなものです」と言うと、今度はお金の話になる。「いくら稼いでるの?」「やっていけるの?」——そういう質問が来ると分かっているから、最初から「副業」という言葉を避けてしまったりする。
こうして、「趣味」でも「仕事」でも「副業」でもない何かに対して、ぴったりくる言葉が見つからないまま、会話が終わっていくんです。
何度かそういう経験を重ねるうちに、「説明できない自分」が少しずつ気になってきました。
「自分は一体何をやっているんだろう」という疑問は、技術的な自信とはまた別のところから来ていました。コードは書ける。動くものも作れる。でも、それを誰かに説明しようとすると、するっと形が崩れてしまう。砂のお城みたいに、輪郭がない。
特にしんどかったのは、「使っている人いるの?」という質問でした。
「まだ……あんまり」と答えるたびに、なんとなく目線を逸らしてしまっていました。作っているもののことは好きなのに、なぜか肩身が狭い。ダウンロード数が少ないということが、作ること自体を否定されているような感覚にすり替わっていく瞬間がありました。
今思えば、それは外からの評価軸を無意識のうちに自分の中に取り込んでしまっていたんだと思います。「なんで作ってるの?」「稼げるの?」「使っている人いるの?」という質問を何度も受けているうちに、自分でも「そうだな、なんで作ってるんだろう」と問い直してしまっていた。
不思議なことに、言葉に詰まっていた時期も、手は止まりませんでした。
説明できないのに、作ることだけは続いていた。帰宅したら画面を開いて、小さなバグを直して、次の機能のことを考えて眠る。その繰り返しが、まるで呼吸みたいに自然になっていました。
あとになって振り返ると、それが一番大事なことだったなと感じます。動機を言語化できていなくても、誰かに認めてもらえていなくても、手だけは動いていた。この事実が、ある時期になってから「自分の言葉」を作るための土台になってくれました。
言葉は、考えてから生まれるものじゃなくて、続けた後に気づくものなのかもしれません。少なくともLilyの場合は、そうでした。
転機は、それほどドラマチックではありませんでした。
オンラインのコミュニティで、誰かが「最近何作ってますか?」と聞いてくれたとき。同じ個人開発者が相手だったせいか、不思議とすらすら言葉が出てきました。「こういう不便さを感じていて、こういうふうに解決しようとしていて、今ここで詰まってます」という話を、自然に話せていた。
そこで気づいたんです。言葉が出てくるかどうかは、自分の準備の問題だけじゃなかった、と。同じ文化・文脈を持つ人に話すとき、わざわざ前提を全部説明しなくていいとき——そういうときに、言葉は出てくる。
お正月の食卓では、「個人開発」という文化を共有していない人に向けて、ゼロから説明しようとしていました。でもそれって、外国語を一つも習ったことがない人に突然その国の話題を振るのに近い。言葉が詰まって当たり前だったのかもしれない。
もう一つ気づいたこと。「何作ってるの?」への答えって、実は動的なものなんですよね。半年前の自分と今の自分では、同じものを作っていても、答えが変わっていたりする。
最初は「使いやすくしたかった」だったものが、「これで誰かの時間を返したい」に変わって、気づいたら「この問題が世の中から消えてほしい」になっていたりする。その変化は、作り続けていないと生まれない。
だから「うまく説明できない」のは、まだ途中にいるというサインでもあって、それは決して悪いことじゃないんだと思えるようになりました。
ただ正直に言うと、「言語化できなくてもいい」という境地に至るまでには、少し時間がかかりました。
最初のうちは、「うまく説明できるようにならなきゃ」という焦りがありました。エレベーターピッチみたいに、30秒で説明できるようにしなきゃ。一文で答えられるようにしなきゃ。——でも、それをやろうとするたびに、なんか削ぎ落としすぎていって、「別にそのためだけじゃないけどな」という感覚が残るんですよね。
いまLilyが落ち着いているのは、「全員に伝わらなくてもいい。でも、分かってくれる人にはちゃんと話したい」という感覚です。
家族や旧来の友人が理解しきれないのは、文脈の違いであって、自分のやっていることの価値の問題じゃない。一方で、個人開発のコミュニティで話すとき、Twitterで作ったものをポストするとき、似たようなことをやっている人と話すとき——そこでの「伝わった」が積み重なって、自分の言葉は少しずつ育っていきます。
伝わらなかった経験は無駄じゃなくて、「ここは文脈がなかったんだな」という学習データになっていました。
最後に、ちょっとだけ語らせてください。
説明できなくても、あなたが作り続けているものは、ちゃんとそこにあります。コードが動いている。画面がある。「あれをこうしたい」という考えが、頭の中に渦巻いている。それは、どんなにうまく説明できなくても、本物です。
「なんで作ってるの?」への答えは、作り続けた先に見つかるものだと思っています。そしてその答えが見つかった頃には、また新しいものを作り始めていて、また「なんで作ってるんだろう」というループが始まるかもしれない。でも、そのループこそが個人開発の正体なんじゃないかと、Lilyは今では少し愛おしく思っています。
もし「言語化したい」という気持ちがあるなら、ひとつだけ試してほしいことがあります。「これを作り始めたとき、どんな不便さを感じていたか」を、誰かに向けてじゃなく、自分のメモに書いてみること。
一文でいい。長くなくていい。「○○のとき、△△が面倒だと感じた」というだけでいいです。これが後で、言葉の種になってくれます。
「何作ってるの?」にうまく答えられなかった日々のことを書きながら、今もまだちょっとうまく言えないな、と思っています。でも、それでもいいかな、とも思っています。
作り続けているということ自体が、今のLilyにとっての答えだから。
Lily(@bokuwalily)― 個人開発者。AIと二人三脚で、iOSアプリやWebサービスを作っています