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「チップをリクエスト」で著者にチップの受け取り設定をお願いできます

夜中の二時ごろ、ふとした瞬間に思ってしまうことがあります。 「このアプリ、もし明日ひっそり消したとして——誰かが気づくだろうか」 怖い問いです。でも一度頭をよぎると、なかなか消えていかなくて。画面を眺めながら、自分でも驚くくらいその問いと長い時間向き合いました。個人開発をしている…
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「チップをリクエスト」で著者にチップの受け取り設定をお願いできます
夜中の二時ごろ、ふとした瞬間に思ってしまうことがあります。 「このアプリ、もし明日ひっそり消したとして——誰かが気づくだろうか」 怖い問いです。でも一度頭をよぎると、なかなか消えていかなくて。画面を眺めながら、自分でも驚くくらいその問いと長い時間向き合いました。個人開発をしていると、こういう夜、ありませんか。ひとりで作って、ひとりでリリースして、ひとりで数字を眺めて——そうしているうちに「これって本当に誰かに届いているんだろう」という感覚が、じわじわと湧いてくること。 これはそんな夜の話です。ちょっと情けない失敗談も含めて、できるだけ正直に書きます。
去年の秋のことでした。リリースから数ヶ月が経ち、最初の熱量が落ち着いてきたころです。アクティブユーザー数は横ばいで、新しいフィードバックもしばらくない。特に問題があるわけではないけれど、特に盛り上がっているわけでもない——そういう、静かな踊り場のような時期でした。
ある夜、管理画面を開いたまま、なんとなく設定の奥のほうに手が伸びました。「削除」という文字が視界に入ったとき、ふっと思ったんです。
押したら、どうなるんだろう。
怖くて押せなかったけれど、指が止まったままその問いを転がし続けました。誰かが「あれ、使えなくなった」と思うだろうか。それとも誰も気づかないまま、静かに消えていくだろうか。
その夜の自分に正直になると、答えは「たぶん誰も気づかない」でした。月次アクティブユーザーはいます。でも、それが「このアプリがなくなったら困る」という人なのかどうか、わからなかった。数字はあくまで数字で、その向こうに生活がある人がいるという実感を、うまく持てていなかったんです。
ちょっと悲しい夜でした。自分が作ったものが誰かの日常に入り込んでいるという手応えを、持てていなかった。それが怖かった。
個人開発って、反応の乏しさが当たり前の環境だと思います。企業のサービスなら専任のチームがいて、ユーザーの声を集める仕組みが整っている。でも個人だと、ユーザーは問い合わせ先すら見つけられないまま、黙って使い続けるか、黙って去っていくか、どちらかになりがちです。
声が届きにくい構造になっている。だから「届いているかどうか」がわからない。これは自分のアプリが弱いからではなく、個人開発という形態そのものが持つ、ある種の静けさだと思っています。
ダッシュボードの数字——DAU、MAU、継続率。これ自体は大事です。でも数字だけを毎日眺めていると、ある時点で「人」が見えなくなってくる気がします。パーセンテージとしての離脱率ではなく、誰かがどんな場面で使って、どんな気持ちでアプリを閉じたのか。その輪郭が見えないと、作り手としての手応えがじわじわと薄くなっていくんです。
あの夜、自分が本当に怖かったのはこれだったと思います。「アプリを消す」ことへの恐怖ではなく、「消しても誰も気づかないかもしれない」という実感のなさへの、怖さ。
もうひとつ正直に言うと、あの時期、他の人の開発日記や数字報告をよく見ていました。ダウンロード数が伸びている報告、バズったSNSの投稿、絶賛のコメント——それを見るたびに、自分のひっそりとした状況と比べていた。
比べること自体は自然なことだと思います。でも、他人の「盛り上がり」を基準にしてしまうと、自分の「静けさ」がどんどん欠如に見えてくる。それが、あの夜の焦りの根っこにもあったと思います。
その夜からしばらく経って、少しだけやり方を変えることにしました。「ちゃんと届いている証拠」を能動的に探すことにしたんです。大げさなことではなく、本当に小さなことです。
まず、リリースノートにひとこと書き添えるようにしました。「この機能はこういう意図で作りました。使ってみた感想、よければ教えてください」という一行。それだけです。
するとしばらくして、ひとりからDMが届きました。内容は短くて、「この機能、毎日使ってます」というだけ。でもその一文が、思った以上に心に刺さりました。
「毎日」という言葉が。その人の朝なのか夜なのか昼なのか、どこかのルーティンにこのアプリが入っているんだ、という事実。数字では一切見えなかった「生活」が、その短い一文に圧縮されていた気がしました。嬉しかったというより、ようやく「人」が見えた、という感覚に近かったです。
もうひとつ気づいたのは、「スター数やレビュー数」より「継続利用」のほうが自分には効く、ということです。
大きな話題になって新規ユーザーが一気に増えることよりも、三ヶ月前から使い続けてくれているユーザーが一人いること——そっちのほうが「ちゃんと届いている」の実感になります。当たり前のことかもしれないけれど、数字を追いかけていると意外と忘れがちで。
継続率を「数字」として見ていたのを、「この人は今日もアプリを開いてくれた」という事実として受け取り直すようにしました。それだけで、少し変わりました。
この時期に試したことがもうひとつあります。週に一度、ユーザー数の増減ではなく「先月から使い続けてくれている人の数」だけを確認する時間を設けたことです。
増えているかどうかではなく、残っているかどうか。それを見ると、派手さはないけれど「ちゃんとここにいる人たちがいる」という感覚が持てるようになってきました。地味な習慣ですが、あの夜のような問いが浮かびにくくなったのは、これが大きかったと思っています。
あの問いに、今はどう答えているかというと——「たぶん、何人かは気づく」と思っています。
断定ではなく、「たぶん」です。全員に大きな影響を与えているとは思わない。でも、日常のルーティンにそっと入り込んでいる人が何人かはいる。その人たちは、消えたら「あれ?」と思う。それで十分だと、今は思えるようになりました。
ひとつ誤解していたのは、実感って「ユーザーが与えてくれるもの」だと思っていたことです。フィードバックが来れば実感できる、レビューが付けば実感できる、と。
でも実際は、自分がどう受け取るか、の話でもあると気づきました。毎日開いてくれているという事実を「継続率XX%」として処理するか、「この人は今日もここに来てくれた」として受け取るか。同じデータが、まったく違う重みを持つ。
受け取り方の筋肉みたいなものがあって、それは意識しないと育たない。あの夜からそれを少しずつ、鍛えようとしています。
もうひとつ気づいたことがあります。アプリがリリースされた瞬間から、届くことはすでに起きている。声が返ってこないだけで、誰かの目に触れ、誰かが試して、誰かが使い続けていることは、もう起きている。
実感が持てないのは、届いていないからではなく、「届いた証拠」を受け取る仕組みや習慣を持てていなかったから——そう思い直してから、少しだけ気持ちが軽くなりました。
あの夜の「もし消したら」は、怖い問いでした。でも今思うと、すごく正直な問いでもあったと思っています。
自分がどこに不安を持っているか、何を求めているか、何が足りないと感じているか——それを全部あぶりだしてくれた問いだった。逃げずに向き合ったからこそ、「届いている実感の正体」を少しだけ整理できた気がします。
答えは「大きな反応がくること」でも「たくさんの人に使われること」でもなかった。「誰かの生活の一部になっていること」——それが自分が求めていた実感の正体でした。小さいけれど、それは確かなことです。
個人開発って、派手じゃないです。プレスリリースも広告も記者会見もない。ひっそりリリースして、ひっそり改善して、ひっそり使われ続ける。その「ひっそり」が時々、孤独に感じることがある。
でも今は、「ひっそり」が必ずしも「誰にも届いていない」ではないと思っています。声は大きくなくていい。毎日使ってくれる誰かが一人いることは、小さいようで、すごく確かなことです。
あの夜の問いに、完全な答えはまだ出ていません。でも、もう指が止まることはなくなりました。消す理由がひとつ減ったというより、作り続ける理由がひとつ増えた、という感じです。
明日も、誰かがどこかでアプリを開いているかもしれない。その「かもしれない」を信じながら、またひとつ、地味に改善を積み重ねていこうと思います。同じように夜中に画面を眺めているあなたにも、少しでも届いたら嬉しいです。
Lily(@bokuwalily)― 個人開発者。AIと二人三脚で、iOSアプリやWebサービスを作っています