この記事が良かったら
「チップをリクエスト」で著者にチップの受け取り設定をお願いできます

深夜の0時を過ぎた頃、リリースまであと少しのはずだったアプリのコードを開いていたら、まったく別のアイデアが頭に浮かびました。「習慣トラッカー、作れそうじゃないかな」と。 そのとき手がけていたのは、タスク管理アプリでした。半年近く少しずつ実装を続けていて、基本的な機能はほぼ揃ってい…
この記事が良かったら
「チップをリクエスト」で著者にチップの受け取り設定をお願いできます
深夜の0時を過ぎた頃、リリースまであと少しのはずだったアプリのコードを開いていたら、まったく別のアイデアが頭に浮かびました。「習慣トラッカー、作れそうじゃないかな」と。 そのとき手がけていたのは、タスク管理アプリでした。半年近く少しずつ実装を続けていて、基本的な機能はほぼ揃っていたはずです。あとはUIを磨いて、ストアに出すだけ——と自分に言い聞かせながら、でも気づいたら新しいプロジェクトのフォルダを作っていました。 このエッセイは、その夜のことを書いています。というより、その夜が何度も繰り返されてきたことを、ようやく正面から見つめてみようと思って書いています。罪悪感と、でも止められない興奮と、自分への言い訳と。そのすべてを抱えながら手を動かし続けてきた、わたしなりの「作り方」の話です。
新しいアイデアが降ってくる瞬間には、独特の感触があります。ふわっとした軽さ、というか。作りかけのアプリを触っているときの「重さ」とは、まるで違う手触りです。
あのタスク管理アプリには、積み残しがたくさんありました。通知のロジックが複雑で、修正するたびに別の箇所が壊れていました。デザインは何度も直したのに、なんとなく「これじゃない」という感覚が消えなくて。コードを開くたびに、小さなため息が出るようになっていました。
そこに「習慣トラッカー」のアイデアが来た。シンプルな仕組みで、自分でも使いたいものです。頭の中でスケッチが広がって、「いや、でも今は……」と止めようとするのに、手のほうが先に動いていました。
翌朝、新しいフォルダが一つ増えていて、古いプロジェクトのウィンドウは閉じられていました。
問題は、翌日からでした。
Xcodeを開くと、プロジェクトの一覧に古いアプリが残っています。ファイル名を見るたびに、なんとなく目をそらしたくなる。「いつか戻る」と思いながら、でも「いつか」はずっと来ない気がしていました。
個人開発をしていると、この「作りかけ」が積み上がっていく感覚、分かってもらえるでしょうか。GitHubのリポジトリ一覧を開いたら、commitが止まっているプロジェクトが並んでいる。あれもこれも「途中」で、完成したものが一つも見当たらない——そんな状態が続いていたとき、わたしは本当に自分のことが信用できなくなっていました。
「続けられない人間なんじゃないか」と。「完成させる気がそもそもないんじゃないか」と。
おかしなことに、自分を責めるほど手が止まりました。責め続けることで「反省している」証拠を作ろうとしていたのかもしれません。新しいプロジェクトに向かうのも後ろめたくて、でも古いほうに戻る気力もなくて、中途半端にぼーっとSNSを眺めている時間だけが増えていきました。
責めることは、作ることの代わりにはなりません。当たり前のことなのに、そこに気づくまでにずいぶん時間がかかりました。
「なぜ途中で別のものを作り始めるのか」という問いに、最初のうちはちゃんと向き合えていませんでした。
「新しいアイデアのほうが市場性がある」「あのアプリはそもそも設計が甘かった」「今の技術力で作り直したほうがいい」——そういう言い訳は、いくらでも出てきます。合理的に聞こえるものほど、自分でも少し疑わしかった。
でも、言い訳を重ねているうちに、少しずつ「本当のこと」も混じり始めました。
「あのアプリを作っていて、楽しくなくなっていた」
これを自分に認めるのに、半年くらいかかりました。楽しくない、という感覚を「甘え」だと思っていたからです。プロだったら完成させる。続けられない自分は意志が弱い。そんな考えが頭にあって、「楽しくない」という正直な気持ちに蓋をしていました。
でも実際のところ、あのタスク管理アプリは、最初から「自分が使いたいもの」ではありませんでした。「需要がありそうだから」「作ったら誰かに使われそうだから」という動機で始めたものでした。作っているうちに、それが少しずつ苦しくなっていったのだと思います。
「楽しくなくなった」は、やめる理由ではなくて、サインだったのかもしれません。
何度か繰り返すうちに、自分にあるパターンがあることに気づきました。
新しいアイデアに飛びつくとき、わたしはたいてい「作りたい理由」が具体的にあります。不便を感じている、こういう体験がほしい、誰かに使わせてあげたい——そういう小さな動機が先にあって、それに合わせてアプリの形が見えてくる。
一方で途中で失速するプロジェクトには、その「動機のリアリティ」が最初から薄かったことが多い気がします。「作れそうだから作る」「需要がありそう」という外側の理由だけで始めたもの。それが悪いわけではないのですが、壁にぶつかったときに踏ん張れる何かが、自分の中にないのだと思います。
「また飛びついてしまった」と思っていたあの衝動は、もしかしたら「こっちのほうが本当に作りたい」という正直なシグナルだったのかもしれません。
だからといって、すべての衝動に従えばいいわけではありません。ただ、衝動を「意志の弱さ」として責め続けることも、もうやめようと思いました。飛びつく前に少しだけ立ち止まって、「なぜ作りたいのか」をメモに書く。それだけで、その衝動が「本物かどうか」が少し見えてくるようになりました。
作りかけのままリポジトリに眠っているアプリは、今もいくつかあります。
それを「失敗」と呼ぶか「引き出し」と呼ぶかは、自分次第だと気づきました。
以前に途中で止めたアプリの設計メモが、Notionのタブに残っていました。半年ぶりに開いてみたら、当時は難しすぎると思っていた実装が、今なら普通にできそうで。アーキテクチャのスケッチも、今見ると悪くないものでした。
作りかけで止めたことで、そのプロジェクトへの「解像度」が上がっていたことがありました。距離を置いたことで客観的に見られるようになって、「ここが問題だった」が分かるようになっていた。
すべてのプロジェクトがそうなるわけではありません。でも少なくとも、放置=無駄ではなかった、とは言えます。あの時間があったから今がある、というのは少し綺麗すぎる言い方ですが、あの時間は確かに存在していて、何かを残してくれていました。
わたしはたぶん、一つのものを丁寧に完成させていくタイプではありません。
それを認めるのはちょっと恥ずかしかったです。個人開発をしている人の記事を読むと、「完成させることが大事」「リリースしないと意味がない」という言葉をよく見かけます。それは本当にその通りだと思います。でも自分に当てはめたとき、「完成させる人」を目指すことで、かえって手が止まっていた時期がありました。
完成していないアプリを前にして、罪悪感を感じながら動けない時間より、新しいアイデアに向かいながら何かを作っている時間のほうが、わたしにとっては前進でした。すくなくとも、技術は育っていた。作ることへの興味は続いていた。
もちろん、完成させることの大切さは変わりません。ただ、完成できないことへの自己嫌悪でエネルギーを使い切るくらいなら、今夜も手を動かすほうを選びたい、と今は思っています。
考え方を変えてから、意識的に「小さく出す」ようにしました。全部の機能を揃えてから出すのではなく、一つの機能だけ動けば出す、という形です。
最初のバージョンは本当に最小限で、恥ずかしいくらいシンプルでした。でもそれが手元に残っていないアプリたちと決定的に違う点で、「存在する」ということは思っていたより大きな意味を持っていました。
このエッセイを書きながら、また新しいアイデアのメモが増えています。
昨日の夜、「こういうアプリがあったら便利なんだけど」と思った瞬間があって、寝る前にNotionに書き残しました。今取り組んでいるアプリがまだ途中なのに。「またか」と思いながらも、その瞬間の感触を消したくなかった。
たぶんこれからも、作りかけが積み上がる夜はあると思います。新しいアイデアに飛びついて、罪悪感を感じて、それでも手を動かし続ける夜も。
でも、それがわたしの「作り方」なんだと、今は少し受け入れられています。完璧な進め方ではないけれど、これが自分にとってのリアルで、この動き方でしか作れないものが確かにあります。
同じように「また別のものを作り始めてしまった」と感じている誰かに、このエッセイが届いたらうれしいです。罪悪感を手放せとは言えないけれど、それを抱えながらでも手を動かし続けることは、ちゃんと意味があると思っています。
今夜も、また何かが始まりそうです。
Lily(@bokuwalily)― 個人開発者。AIと二人三脚で、iOSアプリやWebサービスを作っています