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「チップをリクエスト」で著者にチップの受け取り設定をお願いできます

先月、わたしはスマートフォンの画面を母に差し出しました。 自分で作ったアプリです。リリースまで3ヶ月かかりました。デザインを何度もやり直して、夜中に一人でテストして、リリースボタンを押す前夜はなぜか眠れなかった。そのアプリを、ようやく大切な人に見せることができた夜のことを、今でも…
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「チップをリクエスト」で著者にチップの受け取り設定をお願いできます
先月、わたしはスマートフォンの画面を母に差し出しました。 自分で作ったアプリです。リリースまで3ヶ月かかりました。デザインを何度もやり直して、夜中に一人でテストして、リリースボタンを押す前夜はなぜか眠れなかった。そのアプリを、ようやく大切な人に見せることができた夜のことを、今でも鮮明に覚えています。 母はしばらく画面を見つめて、それから顔を上げ、ニコッとうなずきました。「すごいね、ちゃんと動いてる」と言いながら、もう一度スマートフォンを手渡してきました。わたしはお礼を言って、でも心のどこかに、ぽかりと穴が開いたような感覚がありました。今回はそのことについて、正直に書かせてもらいます。個人開発をしているみなさんなら、きっとこの感覚に心当たりがあるんじゃないかと思いながら。
夕食の後、ソファに並んで座って、わたしはアプリの使い方をひとつひとつ説明しました。「これが記録画面で、ここをタップすると入力できて、グラフはこっちにあって」。母はちゃんと聞いてくれていました。うなずきながら、「ふんふん」と相槌を打ちながら。
でも途中で気がついてしまいました。母の目線が、画面の内容よりも「娘が一生懸命説明している」という事実に向いているということに。
それはとても温かい視線でした。でもそれは、アプリの価値を理解している人の目ではありませんでした。「娘がこんなものを作れるようになったんだ」という驚きと、愛情と、よくわからないけど応援している、という気持ちが混ざったような眼差しでした。
わたしが3ヶ月かけて解決しようとした課題も、設計に込めた工夫も、何度も悩んだUI上の細かい判断も、そのほとんどは伝わっていませんでした。それが悪いわけではなくて、ただ、そういうものだと気づいた夜でした。
思い返せば、わたしはずっとある勘違いをしていました。
大切な人に見せて、喜んでもらえたら、「届いた」ということなんだ、と。
でも母のニコッとうなずく顔を見たとき、それは少し違うんじゃないかと感じたのです。母が喜んでくれたのは、アプリの価値を理解したからではなくて、「Lilyが何かを作った」という事実に対してでした。それはそれで、すごく嬉しいことです。でも「届いた」とは少し別の話です。
個人開発を始めたころのわたしは、「誰かに使ってもらえたら届いたことになる」と思っていました。次に「使ってくれた人に褒めてもらえたら届いたことになる」と思うようになりました。でもそれも違う気がしています。
初めてアプリをリリースしたとき、Xに投稿しました。「作りました!」と書いて、スクリーンショットをつけて。いいねがいくつかついて、「すごい!」というリプライをもらいました。でもダウンロード数は一桁でした。
褒めてもらえたのに、使われていない。このギャップがずっと頭に引っかかっていました。
知り合いに見せたときも似たようなことがありました。「面白そうだね」と言ってくれるのに、その後一度も使ってくれなかった。悪意はない。ただ、自分には必要なかっただけです。でも当時のわたしはそれを「届いた」と数えていました。だから余計にしんどかった。
転機は、一通のメッセージでした。
リリースから2ヶ月ほど経ったころ、見知らぬユーザーの方からフィードバックが届きました。「このアプリ、毎朝使っています。以前は〇〇が面倒で続かなかったんですが、これのおかげで習慣になりました」という内容でした。
読んだとき、胸の奥がじんとしました。
母のニコッとうなずく笑顔も嬉しかった。知り合いの「面白そう」も嬉しかった。でも、このメッセージの重さは、それとはまったく違いました。「届いた」という感覚が、初めて腑に落ちた気がしました。
その人はわたしのことを知りません。わたしが何ヶ月かけて作ったかも、リリース前夜に眠れなかったことも知らない。でも、その人の生活に、ちゃんとアプリが根を張っていました。
それからです、「誰かに届く」という言葉の解像度が変わったのは。
届くというのは、その人の問題を解決することなんだと思うようになりました。笑顔になってもらうことでも、褒めてもらうことでもなく。その人が抱えていた不便さや面倒くささや、うまくいかなかった何かが、少しだけ楽になること。それが届いたということなのかもしれない、と。
だとすると、大切な人がニコッとうなずいてくれても、そこには「届く」はなかったのかもしれません。母はそもそもわたしのアプリが解決しようとしていた課題を抱えていないからです。それは当然のことで、誰も悪くない。ただ「届く相手」が違っただけでした。
「届かない」という体験は、つらいです。特に、大切な人に見せてもピンと来てもらえないときは、自分の作ったものを否定されたような気持ちになることがあります。
でも今は、少し見方が変わりました。
届かなかったのは、作ったものが悪かったわけではなくて、届ける相手が違っただけだったのかもしれない。そう考えると、「誰に届けたいのか」をもっと丁寧に考えることが大事だと気づきます。
わたしは最初のうち、「なんとなく困っている人」に向けて作っていました。でもそれでは、誰にも届きにくい。具体的な誰かの、具体的な困りごとを想像するようになってから、少しずつ状況が変わってきました。
大きなことはできていません。でも、こんな小さなことを始めました。
まず、リリース前に「こういう人向けに作っています」という一文を書くようにしました。説明文を書く前に、自分の中でターゲットを言語化するためです。書いてみると、「あれ、これ誰に向けているんだろう」と気づくことが増えました。
次に、使ってくれた人に声をかけるようにしました。アンケートとか大げさなものではなくて、「使ってみてどうでしたか」という一言だけ。それだけで、自分が想定していた使われ方と、実際の使われ方がぜんぜん違うことを知れるようになりました。
そして、届いたメッセージやコメントを記録するようにしました。落ち込んだときに読み返すためです。一件でも「これ便利でした」という言葉があると、また作る気力が戻ってきます。
話が長くなりましたが、最後に正直なことを言わせてください。
母のニコッとうなずく顔は、わたしにとって宝物です。
アプリの価値を理解していなくても、課題を抱えていなくても、「Lilyが頑張ったんだね」という気持ちで笑顔になってくれる人が身近にいるというのは、すごいことだと思っています。
個人開発をしていると、孤独を感じることがあります。コードは一人で書くし、失敗も一人で抱えるし、うまくいかない夜も一人です。そういうときに、理解はしていないけど応援してくれている人の存在が、静かに背中を押してくれることがあります。
「届く」の意味は、大切な人の笑顔とは少し別のところにある。でも、大切な人の笑顔も、それはそれで必要なものです。違う種類の、でも同じくらい大事なものだと思います。
個人開発をしていると、「誰にも伝わらない」という感覚になることがあります。
でもそれは、まだ届く相手に出会えていないだけかもしれません。
母はニコッとうなずいてくれました。それはアプリの価値への反応ではなかったけれど、「Lilyが作り続けている」ことへの反応でした。それを受け取りながら、わたしはまだ作っています。
届く一人に出会うために、もう少しだけ届け続けてみようと思っています。焦らなくていい。説教くさく言いたいわけじゃないけれど、続けることが唯一の道だとは思うので。
みなさんの作ったものが、届くべき誰かに届きますように。そしてわたしも、その「誰か」に向けて、ちゃんと作り続けられますように。
Lily(@bokuwalily)― 個人開発者。AIと二人三脚で、iOSアプリやWebサービスを作っています