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「チップをリクエスト」で著者にチップの受け取り設定をお願いできます

あの日のDMを、今でもときどき読み返します。 通知が来たとき、最初は何かのエラー報告だと思いました。見慣れないアイコン、見慣れない名前。でも画面をスクロールしてみると、そこには短い文章がありました。「いつも使っています。もしよければ、こんな機能があると助かるのですが」。 正直に言…
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「チップをリクエスト」で著者にチップの受け取り設定をお願いできます
あの日のDMを、今でもときどき読み返します。 通知が来たとき、最初は何かのエラー報告だと思いました。見慣れないアイコン、見慣れない名前。でも画面をスクロールしてみると、そこには短い文章がありました。「いつも使っています。もしよければ、こんな機能があると助かるのですが」。 正直に言うと、最初に感じたのは喜びより先に「どうしよう」でした。このエッセイは、その「どうしよう」から始まった話です。個人開発をしていると、自分のアプリが誰かの日常に溶け込んでいる瞬間が、思いがけず突然やってきます。その瞬間に、喜びと戸惑いと、小さな責任感が一度に押し寄せてくる。その感覚を、正直に書き残しておきたいと思いました。
そのアプリを作り始めたのは、純粋に自分が困っていたからです。仕事のあとに少しだけ勉強する時間を記録したくて、でも既存のアプリはどれも機能が多すぎて、起動するたびに疲れてしまう。だったら自分で作ればいい、と思って始めました。
最初のバージョンは本当に粗削りでした。必要最小限の画面しかなく、デザインというものがほぼ存在していなかった。でも「自分が使えれば十分」という基準には合格していたので、それで満足していました。毎晩少しずつ改善しながら、いつの間にか愛着が湧いてきていました。
公開したのは半ば勢いです。「せっかくだから」とSNSで告知を一度しただけで、反応は数件のいいねと、友人からの短いコメントだけ。それで十分だと思っていました。作りたいから作る、使いたいから使う。それ以上のことは考えていなかったし、考える必要もないと思っていました。
あのDMが来たのは、平日の夜遅くでした。翌日の準備をしながらぼんやりスマートフォンを見ていたら、見慣れないアイコンからの通知があって。送り主のプロフィールを見ると、わたしとはまったく無関係な、別の文脈で生きているアカウントでした。IT系でもなく、開発者コミュニティにもいない、ごく普通のユーザーさんに見えました。
メッセージの内容はシンプルでした。タイマーのリセットを、もう少し手軽にできるようにしてほしい、という要望でした。細かい状況の説明はなかったけれど、どんな場面で不便を感じているのかは、なんとなく伝わりました。
正直、最初の感情は複雑でした。うれしい、という気持ちはもちろんありました。でもそれと同じくらいの速さで、「わたしのアプリ、ちゃんと動いてる?」「どこかで不具合を踏んでいないだろうか」「そもそも返事はどうすればいいんだろう」という不安が頭の中を走り回りました。
誰かが使っているというリアリティを、わたしはそのとき初めて実感しました。公開ボタンを押した日には感じなかった重さが、突然そこにありました。それまでアプリは「自分の日記みたいなもの」だったのが、「他人も読む日記」になった感覚、と言えばわかってもらえるでしょうか。
リクエストをくれた方が、どんな日常の中でわたしのアプリを使っているのか、わたしには知る由もありません。仕事の合間なのか、寝る前なのか、通勤中なのか。でも、使ってくれているのは確かで、その日常のどこかに、わたしが夜中に少しずつ組んで作ったものが存在している。
その事実が、思っていたよりずっと大きな重さを持っていました。良い意味でも、少し怖い意味でも。
それまでのわたしは、バグを見つけても数日放置できていました。「どうせ自分しか使ってないし、今週末でいいか」という言い訳が、無意識のうちに免罪符になっていたからです。でもあのDMを読んだ瞬間、その言い訳は使えなくなりました。
代わりに生まれたのは、不思議な種類の責任感でした。プレッシャーというよりは、「ちゃんとしなきゃ」という自然な気持ちに近いもの。誰かの日常に入り込んでいるのなら、その信頼を裏切りたくない、という気持ちです。
同時に、それまでぼんやりしていた「作る意味」が、少しだけ鮮明になった気がしました。誰かに使われるということは、自分の時間と思考が、見知らぬ誰かの日常に静かに溶け込んでいるということで。それはなんというか、思っていたより静かで、深い感動でした。
悩んだ末に、そのDMに返信しました。「ありがとうございます、検討します」では素っ気ないと思ったので、「もう少し教えてもらえますか?」と書きました。どんな場面でリセットしたくなるのか、今の操作のどのあたりが手間に感じているのか、もう少し詳しく聞かせてほしいと。
実は、これが一番緊張しました。返信することで「対話が始まる」ということが、なんだかとても大きなことに感じられて。でも思い切って送ってみたら、返ってきた返信はとても丁寧で、温かみがありました。「こういうときに、ここが手間で」という具体的な説明と一緒に、「でも全体的には気に入っています」という一文があって、それがまたじわじわと効きました。
一週間後に、できる範囲で実装しました。完璧なものを作ろうとしなかった、というのが今振り返ると正解でした。まずシンプルな形で動くものを作って、またDMを送りました。「試してみてください。もし違ったらまた教えてください」と。
数日後に「使いやすくなりました、ありがとうございます」という返信が来て、そのときの気持ちはうまく言葉にできません。給料をもらったわけでも、なにか特別な評価をされたわけでもないのに、とても満たされていました。小さな達成感というより、「ちゃんとつながれた」という感覚に近かったかもしれません。
あれ以来、何かを実装するときの頭の中が少し変わりました。以前は「自分が使いやすいか」だけを考えていたのが、「もし誰かがこれを使っていたら、どう感じるだろう」という視点が自然と加わるようになったのです。
それは重荷ではなくて、むしろ方向を与えてくれるものでした。何を優先して作るかに迷ったとき、「あのDMをくれた人だったらどう使うだろう」と考えると、意外とすっきり答えが出ることがある。ユーザーの顔が見えると、判断が楽になる、ということを初めて知りました。
ただ、誤解してほしくないことがひとつあります。最初から「誰かの役に立とう」と思って作り始める必要はない、ということです。
わたしはそうじゃなかったし、たぶんそうじゃなかったから続けられたとも思っています。「自分が欲しいものを作る」という動機は純粋で強い。その純粋さが、どこかで誰かの役に立つことと、あとからつながることがある。順番は逆でいい、と今は思っています。
「誰かのために」という気持ちは、後からついてきてくれれば十分です。最初は「自分のために」で始めることが、長く作り続けるためには大事なことかもしれない。
正直に書いておくと、今でも新しいDMや返信を開くときは少し緊張します。「不具合の報告だったら」「使いにくいと言われたら」「自分には対応できないことだったら」という気持ちは、完全にはなくなっていません。
でもその緊張は、悪いものじゃないと思い始めています。緊張するということは、誰かに届いているということで、届いているということは、作ったものがちゃんと存在しているということだから。
あのDMが来る前、わたしのアプリはわたしの中だけに存在していました。パソコンの中にあって、自分のスマートフォンの中にあって、それで完結していました。でも今は、どこかの誰かの日常の中にも、ひっそりと存在しています。その人が今日もアプリを開いているかどうかはわからないけれど、そこにある、かもしれない。
それだけで、作り続ける理由として十分な気がしています。
次にリクエストが来たとき、今度はもう少し素直に喜べると思います。「どうしよう」より先に、まず「ありがとう」と思えるようになった気がするから。そしてまた、返信して、聞いて、作る。その繰り返しが、いつの間にか自分のアプリを育てていくのだと思います。
Lily(@bokuwalily)― 個人開発者。AIと二人三脚で、iOSアプリやWebサービスを作っています