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「自分にはたぶん無理かも」という感覚が、いつ消えたのかを正確に言える人は、あまりいないんじゃないでしょうか。Lilyです。今日はそのことを書いてみようと思います。 この感覚、覚えがある方はいませんか。何かを始めてしばらくたったころ、ふとした瞬間に「あれ、気づいたらそんなに怖くなく…
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「自分にはたぶん無理かも」という感覚が、いつ消えたのかを正確に言える人は、あまりいないんじゃないでしょうか。Lilyです。今日はそのことを書いてみようと思います。 この感覚、覚えがある方はいませんか。何かを始めてしばらくたったころ、ふとした瞬間に「あれ、気づいたらそんなに怖くなくなっていた」と思う、あの静かな変化。大きな成功があったわけでも、誰かに褒められたわけでもない。でもいつの間にか、少し信じられるようになっている自分がいる。 わたし自身がそれを経験したのは、個人開発を続ける中でのことでした。失敗もたくさんして、誰にも見えないところでくじけかけて、それでも細々と手を動かしていたら——ある日、気がついたら「自分にはできない」という声が、前ほど大きくなくなっていました。その変化がどこから来たのかを、今日は正直に振り返ってみます。
個人開発を本格的に始めたころ、わたしは何度もプロジェクトを途中で止めました。止めた理由を正直に言うと、技術的な壁というより「どうせ誰も使わないんじゃないか」という感覚でした。
作りかけのダッシュボード、途中まで書いたAPIの実装、デザインだけ作って動かさなかったフォーム。フォルダの中に眠っているものが増えていくたびに、「やっぱり自分にはリリースまで持っていく力がないのかも」と思いました。
これは自己否定というより、もっと静かな諦めでした。「わたしはこういう人間なのかもしれない」という、少しだけ悲しい結論。反論する気力もなく、ただそれを信じかけていました。
止まるたびに、誰かに話せればよかったんですが、それもできませんでした。「また途中でやめた」と言うのが恥ずかしかったからです。コミュニティには「リリースしました!」という投稿があふれていて、自分の"止まった記録"を声に出す場所がない気がしていました。
でもこれ、後から思えば錯覚でした。止まっていたのはわたしだけじゃなかったし、誰もが似たような経験をしていた。ただそれが可視化されていなかっただけで。
変化の最初のきっかけは、ある日「完成させなくていいから、今日作った部分だけ見せよう」と思ったことでした。
それまでのわたしは、完成してからでないと人に見せてはいけない、と思い込んでいました。でも、完成の定義が曖昧なまま「完成させなきゃ」と思い続けていると、永遠にスタートラインに立てない。それに気づいて、スクリーンショット1枚だけをXに投稿してみたんです。
「今日はここまで作りました」という、本当に小さな投稿。反応はゼロでした。でもそれでよかった。「外に出した」という事実がわたしの中に残って、次の日また手を動かす理由になったからです。
最初は反応をもらうために投稿していました。でも続けていくうちに気づいたのは、反応がゼロでも「自分が記録した」という満足感があることでした。
これは人によって違うと思いますが、わたしにとっては「誰かに見てもらうこと」より「今日もやった、という事実を外に置いておくこと」のほうが、継続につながりやすかったです。日記を書く感覚に近い。誰に読まれなくても、書いた自分の中には残る。
もう一つ変化があったのは、失敗との関係が少し変わったことです。
以前のわたしは、うまくいかないことがあると「やっぱりわたしには難しかった」と結論づけていました。失敗を自分の能力の証明として使っていたんです。今思えばこれはすごく損な使い方で、失敗はただの「うまくいかなかったパターンのデータ」でしかないんですが、そう思えるようになるのに時間がかかりました。
転機になったのは、失敗したことを少し具体的に書き留めてみたことです。「なぜ止まったか」を感情ではなく出来事として書く。「やる気がなかった」ではなく「月曜日の夜、仕事のあとに1時間さわろうとして疲れていてできなかった」のように。
すると「月曜の夜は無理なんだ」という具体的な情報になる。感情の記録ではなく、行動の記録。それが積み重なると、自分のパターンが見えてきました。
自分のパターンがわかると、「わたしはダメだ」という判断が「わたしは月曜夜は動けない」という事実に変わりました。事実ならば対処できます。月曜夜に予定を入れなければいい、土曜の朝に少し集中する時間を作ればいい。
これは些細なことに見えて、わたしには大きな変化でした。自分を責めることに使っていたエネルギーを、環境を整えることに使えるようになった。自己批判が減ると、単純に手を動かす回数が増えました。
最初の投稿から3ヶ月ほどたったころ、ふり返って気づきました。「あ、3ヶ月続いてる」と。
その瞬間に何か大きな感動があったわけではないんですが、「続いていた」という事実が、静かに自分の中に根付いていました。1日1日はなんでもない。でも3ヶ月分の「今日もやった」が積み重なると、「わたしは続けられる人間らしい」という薄い証拠になっていた。
これはとても地味な体験です。誰も祝福してくれないし、特別な変化があるわけでもない。ただ「やれた日の積み重ね」が、いつの間にかわたしの自己イメージに少し混ざり込んでいた。
同じころ、気づいたことがもう一つあります。「どうせ誰も使わない」「自分にはたぶん無理」という内側の声が、前ほど大きくなくなっていました。
消えたわけじゃないんです。今でも新しいことに挑戦するときは「うーん、難しそう」と思います。でも以前と違うのは、その声に説得力がなくなっていること。「続けられなかった記録」より「続けられた記録」のほうが増えたから、過去のわたしが証言として使えなくなった。
自己信頼って、こういうものなのかもしれないと思いました。ポジティブな言い聞かせではなく、「やれた事実の積み重ね」が証拠として機能する感覚。
個人開発をしていると、数字が可視化されることが多いです。ダウンロード数、ビュー数、スター数。それが少ないと、続けることの意味を疑いたくなる瞬間があります。
でも継続の本当の価値は、その数字の外にあると思っています。誰にも見えない小さな試行、止まってから再開するまでの時間が少しずつ短くなっていくこと、失敗したあとの立て直し方が少しずつ上手になっていくこと——これは数字に出ません。でもたしかに積み重なる。
自己信頼というと、なにか心構えとか決意とか、そういうものを想像していました。「自分を信じよう」と思えば信じられる、というような。でも実際はそうじゃなかった。
「わたしにもできるかもしれない」という感覚は、やってみた回数が増えることで、後から少しずつついてくるものでした。先に信じてから動くのではなく、動いた記録が少しずつ「信じる材料」になる。これは順番が逆だったんです。
もし今「自分にはたぶん無理かも」と思いながら、それでも手を動かしている人がいたら、それはもうすでに、何かが始まっています。
完成しなくていい。誰かに見てもらわなくていい。今日ほんの少しでも動かせたなら、それが積み重なる。わたしはこの3年で、誰にも見えない地味な継続のほうが、自分を変えてくれることを実感しています。
「いつ変わったか」は聞かれてもわかりません。気づいたらそうなっていた、としか言いようがなかった。でもその「気づいたら」に向かっていくには、今日も少しだけ手を動かすことだけが、唯一の道だったと思っています。
焦らなくて大丈夫です。静かに続けていたら、いつの間にか、信じられるようになっています。少なくともわたしはそうでした。
Lily(@bokuwalily)― 個人開発者。AIと二人三脚で、iOSアプリやWebサービスを作っています
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Lily(@bokuwalily)― マーケ組織50名規模を統括するCMOを経て、いまは個人でiOSアプリやWebサービスを作っています。集客・導線設計と、AI導入・業務自動化の相談を受けています
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「自分にはたぶん無理かも」という感覚が、いつ消えたのかを正確に言える人は、あまりいないんじゃないでしょうか。Lilyです。今日はそのことを書いてみようと思います。 この感覚、覚えがある方はいませんか。何かを始めてしばらくたったころ、ふとした瞬間に「あれ、気づいたらそんなに怖くなくなっていた」と思う、あの静かな変化。大きな成功があったわけでも、誰かに褒められたわけでもない。でもいつの間にか、少し信じられるようになっている自分がいる。 わたし自身がそれを経験したのは、個人開発を続ける中でのことでした。失敗もたくさんして、誰にも見えないところでくじけかけて、それでも細々と手を動かしていたら——ある日、気がついたら「自分にはできない」という声が、前ほど大きくなくなっていました。その変化がどこから来たのかを、今日は正直に振り返ってみます。
個人開発を本格的に始めたころ、わたしは何度もプロジェクトを途中で止めました。止めた理由を正直に言うと、技術的な壁というより「どうせ誰も使わないんじゃないか」という感覚でした。
作りかけのダッシュボード、途中まで書いたAPIの実装、デザインだけ作って動かさなかったフォーム。フォルダの中に眠っているものが増えていくたびに、「やっぱり自分にはリリースまで持っていく力がないのかも」と思いました。
これは自己否定というより、もっと静かな諦めでした。「わたしはこういう人間なのかもしれない」という、少しだけ悲しい結論。反論する気力もなく、ただそれを信じかけていました。
止まるたびに、誰かに話せればよかったんですが、それもできませんでした。「また途中でやめた」と言うのが恥ずかしかったからです。コミュニティには「リリースしました!」という投稿があふれていて、自分の"止まった記録"を声に出す場所がない気がしていました。
でもこれ、後から思えば錯覚でした。止まっていたのはわたしだけじゃなかったし、誰もが似たような経験をしていた。ただそれが可視化されていなかっただけで。
変化の最初のきっかけは、ある日「完成させなくていいから、今日作った部分だけ見せよう」と思ったことでした。
それまでのわたしは、完成してからでないと人に見せてはいけない、と思い込んでいました。でも、完成の定義が曖昧なまま「完成させなきゃ」と思い続けていると、永遠にスタートラインに立てない。それに気づいて、スクリーンショット1枚だけをXに投稿してみたんです。
「今日はここまで作りました」という、本当に小さな投稿。反応はゼロでした。でもそれでよかった。「外に出した」という事実がわたしの中に残って、次の日また手を動かす理由になったからです。
最初は反応をもらうために投稿していました。でも続けていくうちに気づいたのは、反応がゼロでも「自分が記録した」という満足感があることでした。
これは人によって違うと思いますが、わたしにとっては「誰かに見てもらうこと」より「今日もやった、という事実を外に置いておくこと」のほうが、継続につながりやすかったです。日記を書く感覚に近い。誰に読まれなくても、書いた自分の中には残る。
もう一つ変化があったのは、失敗との関係が少し変わったことです。
以前のわたしは、うまくいかないことがあると「やっぱりわたしには難しかった」と結論づけていました。失敗を自分の能力の証明として使っていたんです。今思えばこれはすごく損な使い方で、失敗はただの「うまくいかなかったパターンのデータ」でしかないんですが、そう思えるようになるのに時間がかかりました。
転機になったのは、失敗したことを少し具体的に書き留めてみたことです。「なぜ止まったか」を感情ではなく出来事として書く。「やる気がなかった」ではなく「月曜日の夜、仕事のあとに1時間さわろうとして疲れていてできなかった」のように。
すると「月曜の夜は無理なんだ」という具体的な情報になる。感情の記録ではなく、行動の記録。それが積み重なると、自分のパターンが見えてきました。
自分のパターンがわかると、「わたしはダメだ」という判断が「わたしは月曜夜は動けない」という事実に変わりました。事実ならば対処できます。月曜夜に予定を入れなければいい、土曜の朝に少し集中する時間を作ればいい。
これは些細なことに見えて、わたしには大きな変化でした。自分を責めることに使っていたエネルギーを、環境を整えることに使えるようになった。自己批判が減ると、単純に手を動かす回数が増えました。
最初の投稿から3ヶ月ほどたったころ、ふり返って気づきました。「あ、3ヶ月続いてる」と。
その瞬間に何か大きな感動があったわけではないんですが、「続いていた」という事実が、静かに自分の中に根付いていました。1日1日はなんでもない。でも3ヶ月分の「今日もやった」が積み重なると、「わたしは続けられる人間らしい」という薄い証拠になっていた。
これはとても地味な体験です。誰も祝福してくれないし、特別な変化があるわけでもない。ただ「やれた日の積み重ね」が、いつの間にかわたしの自己イメージに少し混ざり込んでいた。
同じころ、気づいたことがもう一つあります。「どうせ誰も使わない」「自分にはたぶん無理」という内側の声が、前ほど大きくなくなっていました。
消えたわけじゃないんです。今でも新しいことに挑戦するときは「うーん、難しそう」と思います。でも以前と違うのは、その声に説得力がなくなっていること。「続けられなかった記録」より「続けられた記録」のほうが増えたから、過去のわたしが証言として使えなくなった。
自己信頼って、こういうものなのかもしれないと思いました。ポジティブな言い聞かせではなく、「やれた事実の積み重ね」が証拠として機能する感覚。
個人開発をしていると、数字が可視化されることが多いです。ダウンロード数、ビュー数、スター数。それが少ないと、続けることの意味を疑いたくなる瞬間があります。
でも継続の本当の価値は、その数字の外にあると思っています。誰にも見えない小さな試行、止まってから再開するまでの時間が少しずつ短くなっていくこと、失敗したあとの立て直し方が少しずつ上手になっていくこと——これは数字に出ません。でもたしかに積み重なる。
自己信頼というと、なにか心構えとか決意とか、そういうものを想像していました。「自分を信じよう」と思えば信じられる、というような。でも実際はそうじゃなかった。
「わたしにもできるかもしれない」という感覚は、やってみた回数が増えることで、後から少しずつついてくるものでした。先に信じてから動くのではなく、動いた記録が少しずつ「信じる材料」になる。これは順番が逆だったんです。
もし今「自分にはたぶん無理かも」と思いながら、それでも手を動かしている人がいたら、それはもうすでに、何かが始まっています。
完成しなくていい。誰かに見てもらわなくていい。今日ほんの少しでも動かせたなら、それが積み重なる。わたしはこの3年で、誰にも見えない地味な継続のほうが、自分を変えてくれることを実感しています。
「いつ変わったか」は聞かれてもわかりません。気づいたらそうなっていた、としか言いようがなかった。でもその「気づいたら」に向かっていくには、今日も少しだけ手を動かすことだけが、唯一の道だったと思っています。
焦らなくて大丈夫です。静かに続けていたら、いつの間にか、信じられるようになっています。少なくともわたしはそうでした。
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